カテゴリー「タンゴコラム」の9件の記事

2010/02/17

ミロンガのDJは誰だ?

 ミロンガを運営するには、会場の手配や広報、飲食の準備なども必要だが、実際にやってみて最も苦労が多いのは選曲(DJ)だと実感している。蓄積した楽曲の中から曲を選び出し、適切に並べる。選曲の好みは個人の嗜好が強く反映し、全員が納得する選曲はあり得ない中で、DJは最適な解を求め、道なき道を探し、ベストを尽くす。選曲の作業は、少なくとも1回当たり数時間かかるし、楽曲のストックを充実するための投資も必要だ。


 海外のミロンガに行くと、会場を見渡せる好位置にブースを構え、入場者の様子を見ながらDJが即興で曲を選んでいる光景をよく目にする。そこからは、DJに対する敬意を感じる。一方、日本のミロンガでDJは裏方に過ぎず、スポットライトを浴びることは稀だ。主催者からDJを頼まれ、引き受けている場合も、せいぜい入場料が不要になるくらいで、対価を支払うという話は聞いたことがない。海外に比べて、明らかにDJの存在が軽視されている。


 しかし、DJの役割は、単に踊りやすい曲を選び、並べるだけに止まらず、そこに緩急を付け、一本の流れを作り出す創造力が求められる。自らが保有する楽曲を、時代や曲調、歌の有無などから分類し、適切に配置していく戦略性が問われる。


 ミロンガで踊る経験が増えるほど、選曲に対する好みが明確になると同時に、良いミロンガの優先順位としての選曲の位置付けが高まることが多い。ミロンガの客質が上がれば、必然的にDJの重要性が高まるし、逆に言えば、ミロンガの客質を高めるためには、有能なDJの存在が不可欠になる。恐らく日本においても、中長期的にはミロンガにおいてDJの地位向上が起きるはずだし、起こらねばならない。


ミロンガでのDJの教科書としては、「Tango Argentino de Tejas」(英語)が参考になる。

2010/02/14

ミロンガの主催者は誰だ?(不義理のお詫び)

 「(ミロンガに)人が来ないとねぇ。自分の人気がないみたいで落ち込むんだよ」――。古い歴史を誇るミロンガの主催者と話をしていた時、彼がぽつりと呟いた言葉が忘れられない。日本の場合、プロはもちろん、アマチュアであっても、主催者の人脈やカリスマ性が、集客に大きな影響を及ぼす。前述の台詞は、それを端的に示す。ミロンガの名称よりも「誰々さんのミロンガ」として親しまれるミロンガは少なくない。参加者も「誰々さんの主催なら、行ってあげなければ」と思い、主催者と参加者の強い繋がりを軸に、ミロンガが成立する。そこでは、行きたいかどうかよりも、義理と人情という言葉がしっくりくる。


 人脈やカリスマ性を持ち合わせない者が、果たしてミロンガを主催することなどできるのだろうか?Tokyo Milongaを始めようとした時、一般的な集客方法は、自分には難しいと感じた。そこで、主催者はなるべく裏方に徹するとともに、ミロンガのコンセプトを前面に掲げ、それに共感してもらえる人たちが集う「コンセプト賛同型」の運営手法が思い浮かんだ。サイトも中性的なイメージを選び、主催者のことには触れないように心がけた。


 従来のミロンガ営業は、他のミロンガで出会った人や踊った異性に、開催を伝えるとともに、インフォメーションの時間に参加を呼びかけ、フライヤを配るのが一般的だ。しかし、「コンセプト賛同型」を徹底するためには、これらの営業手法を採らず、代わりにサイトの充実や、インターネットを使った告知に力を入れることにした。不定期に開催するミロンガがフライヤを作る場合、毎月のように作成し直す必要があり、製作の負担や印刷代以上に、それを他のミロンガに配って歩く労力が大きかったはずだ。また、コンセプトの中で、告知やデモの時間は取らないと強調しているのに、自らは他のミロンガで告知することは、一貫性に欠くような気がした。有り難いことに現在までのところ、予想を上回る人たちが参加してくれているとともに、コンセプトの影響か、ミロンガ経験の豊富な人たちが多いように感じる。


 ただ、従来手法ではないことによる弊害もない訳ではなかった。あるミロンガ主催者から好意で「告知しますか?」と問われ、お断りしたところ、「うちに来ている客は来なくていいってことね」と怪訝な顔をされた。これまで告知したのは、深く考えずに昨年末に一回きりで、それ以降は他のミロンガでは一切告知することを止めた。相対での営業もなるべくせず、ミロンガを主催していることすら伝えていないタンゴ友達も少なくない。従来の営業手法に慣れた人からすると、「自分は来て欲しくないから案内しない」と誤解していないかが心配だ。友人だから参加するのではなく、主催者が誰だろうと関係無しに、行きたくなるミロンガを目指していきたい。ミロンガに求める価値観は、人によって多様だ。自らが求める価値観にぴったりと合うミロンガに行くことこそが、参加者にとっても、主催者にとっても幸福につながる。

2010/01/28

ルナとプーロが閉じる必然性

 渋谷のルナ・デ・タンゴが9月末でなくなったのに続き、新宿のプーロ・タンゴも年内には閉じるという。老舗スタジオの相次ぐ閉鎖に疑問を覚える人も少なくないようだが、両スタジオは一定の役割を終え、無くなるべくして消えていった、と個人的には感じている。

 両スタジオの特徴は、多くの外人プロダンサーを抱えていた点にある。特に主催ミロンガでは、彼ら目当ての女性客が多く詰めかけ、その波及効果として男性客が集まり、ビジネスとして成り立っていた。上手に踊れる人が常にいて、順番になれば必ず踊ってくれる仕組みは、非常に合理的な一面を持ち合わせていた。

 ところが、この好転がある地点から狂い始める。まず男性客が集まりにくくなる。女性客の来店目的は、まずもって外人プロダンサーと踊ることにあり、一般の男性客は「その合間の時間潰し的な存在」に過ぎず、もともと反感を覚える人が少なくなかった。女性客の間でも、あまりにも高い女性比率に加えて、2曲踊れば「ありがとうございました」と言い残し、次々と女性を誘う”営業踊り”の空しさから足が遠のく人が増える。外人プロダンサーを揃えたホストクラブ的経営は、その人件費の高さゆえに次第に行き詰まった。

 以上は、個人的な推測の域を脱していない。ただ、ミロンガが成熟する過程で、時代の要請を受けて誕生し、ミロンガの中心が”ホストクラブ”から”自由恋愛”に移行する中で、歴史的な必然として幕を閉じたのではと思う。時代の役割を果たし、消えていくルナとプーロに合掌。

(2008年10月14日のmixi日記から)

タンゴ講師減員計画

 社会の片隅で細々と肩を寄せ合い棲息するタンゴ人口に比べて、供給過剰なのがタンゴ講師だ。ショッカーのように次から次に現れる。資格や免許などの仕組みがなく、自前のスタジオさえ持たなければ、お金がなくても始められる。参入障壁の低さが、供給過剰の主因であることは間違いない。


 しかし、レッスンすれど生徒集まらず。グループレッスンもプライベートレッスンも変わらない状況が散見される。海外講師のワークショップが増え、ますます生徒は集まりにくくなっている。


 通常は供給が需要を上回れば、価格(レッスン料)が下落する市場メカニズムが機能し、「1レッスン980円ポッキリ」なんていう値崩れが起きてもいいはずなのだが、実際はそうなっていない。


 ここで一つの仮説を提案したい。それは「タンゴ講師はレッスン料でなく、ミロンガの主催で生計を立てている」説である。タンゴ人口は、新しく始める人が少ない一方、ある程度の経験者の比率が高い。必然的にレッスンに支払うお金より、ミロンガに使うお金の方が多くなる。元の教え子を主体に動員をかければ、ミロンガ主催の方が効率的に稼げる。レッスンの赤字をミロンガの黒字で補うビジネスモデルといえる。


 ただ、赤字分が上乗せされるだけに、ミロンガ料金は高くなりがちだ。三千円前後が多く、主にタンゴ講師以外が主催する千円程度のプラクティカとは二極化しつつある。ワンドリンクで生演奏も付かず、3千円という価格設定は世界的に見ても非常に強気な価格設定といえる。


 タンゴ講師が多いことは生徒にとって選択肢が増え、プラスの側面ももちろんあるが、上記の通り負の側面も見逃せない。だが、この状況はいずれ解消されると個人的には楽観視している。一般論として物事の成熟化が進めば、より機能が分化していくためだ。つまり、タンゴ講師がミロンガの運営者を兼ねる必然性はない。今後は、プロのミロンガ運営者が出てくるのではないかと予想している。


 そもそも、快適なダンス空間を提供し、素晴らしい音楽を選び、皆が楽しめるミロンガを運営する能力と、タンゴ講師として求められる資質には共通点が乏しい。現状のタンゴ人口に対してミロンガ運営を商売として成り立たせることは決して容易でないが、タンゴ講師とミロンガ運営者の分化は、日本のタンゴの質をより高め、タンゴ人口の量的拡大にもつながると思う。アルゼンチンに、タンゴダンスを習うのではなく、ミロンガの経営を学びにいく人が出てくることに期待したい。


(2008年07月01日のmixi日記から)

タンゴ界の未来予想図

 高齢化が急速に進む日本社会において、タンゴ界も例外であり得ない。現在も限界村落にでも紛れ込んだような錯覚に陥るミロンガがある中、高齢化の進展はミロンガに変革を迫る。


 まず、軽食やドリンクが変わる。嗜好の変化を受け、スナック菓子は塩煎餅、チョコは羊羹、ジュースは梅昆布茶に取って替わられる。煮付けや和え物も出るし、食後はフルーツの王様・バナナの登場だ。ただ昔に比べて食が細くなったから、量は多くない。その食卓の様(さま)は、故郷に久し振りに戻ったかのような郷愁を覚えずにはいられない。食後に「シーハーシーハー」するための爪楊枝も欠かせない。


 当然、ステップもぐっと大人向きになる。早い動きは老人虐待と同一であり、理想は動かざること山の如しだ。ボレオは腰痛を、ヒーロは貧血を、ガンチョはリウマチを招く。動きの早いミロンガ(の曲)が始まれば、ポケットに忍ばせた"救心"の存在をそっと確認する。加齢臭と入れ歯の臭い対策が専らのエチケットで、気がつけば随分と汗をかかなくなった。


 タンゴ界の未来は明るい。


(2008年04月29日のmixi日記から)

タンゴ好き

 「~好きには悪い人はいない」なんて言う。動物好き、釣り好き、犬好き、テニス好き、花好き・・・。中には「阪神ファンに悪い人はいない」と言う人まで出る始末だ(もちろんこれは正しくない)。そして、言ってる本人は120%阪神ファンである。何の根拠も無く、偶然ある一点において嗜好が似ていた、それだけの事実で、お互いに悪い人ではないと慰め合う。


 では、「タンゴ好きに悪い人はいない」だろうか? 実態はよく知らないが、極悪非道な人ばかりだと聞く。「タンゴを踊る男(女)に騙され、ボロ雑巾のように捨てられた」とか、
「自分を踏み台にして、大空高く羽ばたいていった」などと聞く。もちろん言っているのは、タンゴを愛する人達だ。


 でも、決してタンゴを恨んではいけない。社内恋愛が上手くいかなかったからって会社に責任がない様に、タンゴが悪い訳ではないのだ。あぁ、可哀想なタンゴ。「自己責任でお願いします」。君の嘆きが聞こえてくる。


(2008年01月28日のmixi日記から)

2010/01/20

反時計回りに見る合理性

 ミロンガでは、なぜ反時計回りに踊るのだろうか。社交ダンスを始め、陸上のトラック競技、競馬、競輪なども反時計回りで共通する。(北極側から見た)宇宙が反時計回りに回転しているように、それは自然の摂理かもしれない。また、心臓の位置を根拠に唱える人もいるし、右利きが多い中、抜きやすいように剣と鞘を男性が左腰に据えるためとする説も根強い。ギリシア文化や佛教は時計回りだが、ローマ文化やキリスト教は反時計回りという興味深い話も聞く。


 ただ、男女がクローズに組むタンゴでは、反時計回りに踊る別の大きなメリットが存在している。クローズに組んだ場合、男性から見て、女性の頭は右側に位置する。身長差にもよるが、男性にとっては、女性の頭によって進行方向の右側が死角になる。


 そのため、もし時計回りで踊る場合、フロアのコーナーを曲がることは右折と同義であり、死角方向に進む必要が生じる。日本国内での車の運転と同様に、左折よりも右折が難しい。フロアで人々が反時計回りに踊ることによって、接触する危険性が大幅に減り、前の流れを確認しながら左折できるようになる。


 裏を返せば、反時計回りに踊っている時、男性はフロア内側の動向は見えているが、外側は死角のためにあまり見えていない。つまり、フロアの外から内に入る場合は、すでに踊っている人ではなく、入る人の方が気を付けて合流する必要がある。また、フロアの内側から外側に踊りながら車線を変更するのは非常に危険を伴う。フロアの外側に沿って、列を崩さず踊ることが推奨されるのは、こういった理由からだろう。

2009/12/12

快楽主義とタンゴ・スタイル(下)

〈胸リードの真の意味〉

 次に、この目的を達成するために、ミロンゲーロ・スタイルは、どういう手段を採用したのかを見ていこう。最大の特徴は、「ペチョ・イ・ペチョ(胸と胸)」とも言われる男女の組み方だ。サンフランシスコを拠点に世界で活躍するタンゴ講師、ネイ・メロ(Ney Melo)は、自身が教えるウルキサ・スタイルと比較し、「ミロンゲーロ・スタイルは、男女の胸が常にパラレル(平行)に保たれる」と生徒たちに教える。
 他のスタイルでも、胸のリードは基本だ。しかし、ここでいう胸は、胸とそれに繋がる両手の「フレーム」を指す。このフレームを崩さないことが、正しいリードであり、胸と両手の連携を欠くリードは、”手リード”として矯正の対象になる。
 一方のミロンゲーロ・スタイルにおける「胸リード」は、まさに胸そのものを指し、胸”だけ”でリードしてしまう。そこにおける両手の役割は、あたかも乗り物のシートベルトのように、緊急時のみ機能し、平時は存在を消す。前述のテテは、デモンストレーションでしばしば、両手を横に大きく広げ、胸だけで女性をリードしてみせる。世界を探しても、胸だけで完全にリードできるペアダンスのスタイルは、恐らくミロンゲーロしかないだろう。

〈離れない2つの胸〉

 ミロンゲーロ・スタイルと同様に深く組んでいるように見えて、実は男女を上から見て「V」字型に組むスタイルを踊る日本人ダンサーが多い。親密に組んでいながら、空間的な自由度が高く、多様なステップが可能だ。これに対して、ミロンゲーロ・スタイルは、男女の胸が常に平行に位置し、かつ面的に密着している。一時的にV字型になることもあるが、完全に男女の胸同士が離れてしまうことはない。
 組む姿勢にも独自性がある。一人で立てないほどではないが、重心を前に置き、胸でお互いを押し合う状態を作る。そして、前に出る時も、下がる時も、ヒーロ(回転)の時も、踊っている間はその状態を常に保持する。「連続的な均衡状態の保持」こそが、ミロンゲーロ・スタイルの核心といえる。

〈美しさの代わりに手に入れた果実〉

 パリ在住で、現地でタンゴ講師のアシスタントを務める山本和香子さんは、ミロンゲーロ・スタイルの重心位置について、水平方向と同時に、「垂直方向が重要」と話す。重心の位置が高い踊り、たとえばバレエなどは非常に優雅に見える。一方、土着的な踊りは、重心が低く、大地から多大なエネルギーを受け取ることができる。美しさを求めるサロン・スタイルは重心が高い。それに対して、民衆の踊りとして大地に繋がるミロンゲーロ・スタイルは、必然的に重心が低くなる。前に進む時も、後ろの足を使い、力強く身体を押し出す動きが欠かせない。
 大地から受けたエネルギーは、男性の身体を貫き、密着した胸から女性に伝わり、女性のつま先から大地に帰っていく。男性のつま先、胸、女性のつま先を繋いだ線は、力学的にもっとも安定した形状である「三角形」を形作る。そこにタンゴ独特のリズムを取り込むことで、男女は他のスタイルでは味わうことができない強烈な一体感を得ることができる。これこそが、ミロンゲーロ・スタイルが美しさを放棄してまで手に入れた果実であり、快楽の源泉ではないだろうか。 (おわり)

【動画】ダリエンソの「インディフェレンシア」を踊るエバ&ウォルター。音の解釈が素晴らしく、一歩一歩を丁寧に踊る。

2009/12/10

快楽主義とタンゴ・スタイル(上)

 「ミロンゲーロ・スタイル」に関心を持つ人たちが増えていると聞く。カンジェンゲやヌエボ、ウルキサなどもあるが、日本のタンゴ・ダンス界におけるスタイルの主流は、これまでステージ(ファンタジア)かサロンの二者択一に近かった。そこに新機軸として、ミロンゲーロ・スタイルが輸入され、従来とは異なるスタイルとして注目を集めている。一方で、新たなトレンドとして消費されこそすれ、その本質に目を向けようとする議論は多くない。ミロンゲーロ・スタイルは一体どこが他のスタイルと異なるのか。少し長くなるが、個人的な見解を綴ってみたい。

〈目指す方向の違いから生まれる独自性〉

 これから「分ける」作業を始めることに矛盾するが、踊りのスタイルを厳密に分類・定義することは不可能だ。一人ひとりの踊りは違うし、ましてタンゴは男女が二人で踊る。その組み合わせの多様性こそが、ペアダンスの魅力とも言える。同じスタイルに位置づけられる有名ダンサー同士を比べても、それぞれに特徴があり、一つのスタイルに押し込めてしまうことに違和感を覚える。
 しかし、「分ける」作業なくして、「分かる」ことは難しい。ミロンゲーロ・スタイルには、姿勢や歩き方といった外見的な特徴だけでなく、そもそも目指すべき方向性に違いがあり、そこからこのスタイルの強烈な独自性が生まれているからだ。

〈美しさを捨てたミロンゲーロ・スタイル〉

 ステージ上で華々しく踊るステージ・スタイルに対して、サロン・スタイルは、主にミロンガで踊るスタイルであり、優雅で洗練されている。周囲に配慮し、大人しく踊りはするが、同時にその踊りは美しくなくてはならない。ステージ・スタイルとは美しさの基準こそ異なるが、美しく踊ることを重視する点では共通している。
 これに対して、ミロンゲーロ・スタイルは、端的に言えば、美しさを捨てたスタイルだ。たとえば、ミロンゲーロ・スタイルを代表するダンサーであるテテ(Tete)。彼の踊りに美しさを感じる要素は少ない。そもそもビール腹のメタボリック、典型的な中高年男性の体形自体が、美とは縁遠い。タンゴをやったことがない人にとっては、彼の踊りが世界的に評価される理由など理解できないに違いない。

【動画】ダリエンソの「アマラス」を踊るテテ。上半身の柔らかさと下半身の力強さが見事に一体化している。

〈美しさよりも快楽〉

 では、ミロンゲーロ・スタイルは、美しさを犠牲にする代わりに、何を手に入れたのだろうか。ミロンゲーロ・スタイルという言葉を生んだスザーナ・ミラー(Susana Miller)は、「ミロンゲーロ・スタイルに、美的な豊かさはない。その代わり、リズムの豊かさに溢れている」と記述している。
 サロン・スタイルは、ミロンガで踊られる時も、第三者の視線を常に意識し、美しくあろうとする。ところが、ミロンゲーロ・スタイルは、第三者を無視し、目の前にいる相手にただひたすら集中する。サロンが「三人称」的であるのに対して、ミロンゲーロは「二人称」の踊りといえる。美しさよりも、二人の気持ち良さ(快楽)に対する徹底ぶり。そこに、この踊りの独自性がある。 (つづく)